「うけたもう」の精神

パン学校の授業第2回は「弟子の構え」について。

その中で、山形県出羽三山 羽黒山の山伏のあるルールについて教えていただいた。

山伏の修行中は無言を貫く。
ただ、一言だけ許される言葉があってそれは「うけたもう」である。
何があっても「うけたもう」。
つまり「Yes」しか選択肢がない。

人間は誰でも頭に壁がある。
だから外から情報が入ってきたときに一度闘ってしまう。
そして闘うことが「辛さ」としてカウントされてしまう。
しかし、何でも「うけたもう=受け入れる」というルールにすると辛くない、という話だった。
パンの学校の田村校長の師である羽黒山の山伏 星野先達によれば、「うけたもう」というルールにすると人間関係のストレスもなくなるという。

初めて聞く「うけたもう」という言葉。
授業後、「うけたもう」について考えているとき、こんな疑問が浮かんできた。

「人間関係のストレスもなくなる、とはいっても、どうしてもうけたもれないときはどう対処したらいいの?」

そこで、星野先達の本『野生の力を取り戻せ』を読んでみた。すると、まさしく私の疑問についての答えが書かれていたのである(この本は星野先達とキャリアコンサルタント 渡辺清乃さんの対談集)。

清乃 (前略)どうやっても「うけたもう」できないと思うこと、あるじゃないですか。その考えは受け入れられないな、とか。

先達 言いたいことはわかるよ。「あなたが言っている言葉は受けたくない」と思うことはあるよね。それはそれでいいんじゃないかな。

清乃 そんな時は「うけたもう」できなくていいということですか?

先達 いや、そうじゃない。「言っている言葉を受ける」、じゃなくて、「そいういうことを言っている、あなたの気持ちを受ける」の「うけたもう」だよ。それはできるだろう。言っていることの「奥」にあるものを受ける、ってことだよ。
(中略)
先達 俺はね、自分の内側にある「光」と「影」の部分に「うけたもう」がある気がするんだ。たとえば、会社の方針を「うけたもう」してそこに委ねる。だけど、自分でやろうとしていること、やりたいことがある。それは「影」の部分でやっちゃえばいいんだ。それは必要なことだ。で、外に出せる形になったら、出していけばいいんだよ。
仕事をしていて、相手からやってくる、その気持ちは「うけたもう」。そして、「うけたもう」できないと感じた面は、自分の気持ちにしたがって、影でやればいい。「正しさ」ってね、光の中にばかりいたってわからないよ。影のなかにいるとそれがよくわかる。人は光と影をもちあわせているし、そのうえでの「うけたもう」なんだよ。

『野生の力を取り戻せ』星野文紘 渡辺清乃

目から鱗だった。

星野先達は「自分の考えはもっていい。だけど、それがオールマイティだと思っていはいけない」ということもこの本で書かれていた。

これまでの私は「光」のみで突き進んでいたように思う。「光」しか持ってはいけないと思っていた。だから苦しいときもあった。でも相手の気持ちを「うけたもう」した上で、「光」と「影」を持てばよいと思うと気持ちが楽になった。

過去を振り返って「あのとき、相手の言葉ではなく気持ちをうけたもうしておけばよかったなー。それから、影の部分で自分のやりたことを粛々と進めればよかったなー」と思うことがある。

「うけたもう」、その言葉と意味を学べてよかった。

「うけたもう」を学んだこれからは、今までより良い意味で気持ちを楽に進んでいけそうだ。

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